動物は何万種におよぶ匂い物質を知覚、識別することができます。では、この精巧な嗅覚システムはどのような分子メカニズムによって成り立っているのでしょうか?この興味深い謎を解明するために、私たちは比較的シンプルな神経系を持つ線虫を研究材料とし、特にRas-MAPKシグナル伝達経路が嗅覚システムにおいて果たす役割に着目した研究をおこなっています。


(1)嗅覚受容におけるRas-MAPK経路の働き


 Ras-MAPK経路は酵母、線虫からヒトまで幅広い生物種に保存されており、様々な現象、局面において重要な働きをするシグナル伝達経路です。私たちは、線虫のRas-MAPK経路が匂い物質の受容に必須の働きをすることを世界で初めて明らかにしました(Hirotsu T., et al., Nature, 2000)。Ras-MAPK経路は匂い刺激に応答して、嗅覚神経内で素早く活性化します(下図参照)。現在、下流の因子の探索などによりこの経路の働きをさらに詳細に解析する取り組みが進行中です。



線虫は多数の匂い物質を知覚、識別できる。化学走性を指標に嗅覚の解析を行う。



線虫のRas-MAPK経路





AWC嗅覚神経における匂いシグナルの伝達経路(モデル図)
嗅覚神経の形態




MAPKの活性化




重ね合わせ
匂い刺激を与えたときのMAPKの活性化。ciliaを除く嗅覚神経全体でMAPKは活性化する。



(2)嗅覚系におけるRas-MAPK経路の活性化のライブイメージング

 これまで匂い刺激に応答したRas-MAPK経路の活性化は、免疫組織染色という手法を用いて行われてきました。しかしこの方法では、線虫を固定する必要があり、生きたままの線虫でRas-MAPK経路の活性化を観察できないという難点があります。そこで、Ras-MAPK経路の活性化を可視化できるプローブを線虫に導入し、最新のイメージング技術を駆使して、この経路の活性化の動態をライブイメージングすることを試みています。



(3)嗅覚順応のメカニズムの解明
 嗅覚の一般的な性質として、匂い物質に連続的にさらされるとその匂いを感じなくなるという現象があります。これを嗅覚順応と呼びます。線虫においては、1時間匂い物質を嗅がせておくと順応現象が見られることが既に報告されていましたが、私たちはわずか5分間の匂い暴露によって成立する新規タイプの順応を見出しました。一般に嗅覚順応は嗅覚神経内で起こる現象だと考えられていますが、この新しい順応は介在神経の機能が必須であるという大変面白い特徴があります。つまり、匂い情報が神経回路レベルで処理されているわけです。私たちは、この順応にRas-MAPK経路の働きが非常に重要であることを見出しました。現在Ras-MAPK経路による受容体の制御に重点をおいた解析や、Caシグナルなどその他の因子の関与について解析するプロジェクトを進めています。
 Ras-MAPK経路は哺乳類の神経可塑性に重要な役割を担うことがよく知られています。よって神経可塑性の解析モデルとして、この嗅覚順応のアッセイ系が非常に有用であると言えるでしょう。本研究を進めることにより、神経可塑性の普遍的なメカニズムの究明にも迫ることを目指しています。

 最近になって、この嗅覚順応に関わる研究成果が2年連続新聞各紙に報道されるなど、この嗅覚順応は脚光を浴びつつあります。

早期順応のアッセイ法



順応時の線虫の動き










野生型はあらかじめ匂い刺激を与えると、chemotaxis indexが低下する(匂いに寄っていかなくなる)。介在神経AIYの機能に欠陥のあるttx-3変異体ではこの順応が成立しない。



(4)匂いの濃度変化に応じた感じ方の変化
 人間では、匂いの濃度が変化すると、同じ匂い物質でも異なる匂いとして認識されることが経験的に知られています。例えば、インドールという匂い物質は、低濃度では花の香りがしますが、高濃度では糞尿臭に感じられます。そのメカニズムについての研究はこれまでほとんど行われてきませんでした。
 現在、線虫をモデルとして、その神経回路メカニズム、分子メカニズムの解明を行っています(東大との共同研究)。


研究内容に興味を持たれた方はこちらへ hirotsu.takaaki.056(at)m.kyushu-u.ac.jp