九州大学大学院

生体高分子学研究室

Protein Science and Cellular Biochemistry

その15 牟田達史氏へ弔辞を捧ぐ

9月12日午前9時30分、横浜で開催されていた日本生化学会大会のあるシンポジウム(座長 徳永文稔氏)に参加していると、携帯に「牟田さん、急死(9月11日夜)」の二件の電子メイルが飛び込んできた。発信者は、東北大の水野健作教授と自宅の娘からであった。翌13日には福岡から家内が上京し、その日の夕方には二人で仙台へ向かい、通夜と翌日14日の告別式に参加した。告別式での弔辞を楽寂静ノートに掲載し、謹んで哀悼の意を捧げたいと思う。

牟田さんが九州大学理学部生物学科・岩永研究室にやってきたのは、今から29年前のことになります。私は、牟田さんの6年上の先輩です。牟田さんは、学部4年生の時には、早くも日本生化学大会に参加しました。前代未聞のことでした。実は、牟田さんは、野球の技能を評価されて、生化学大会の野球大会のレギュラーとして参加したのでした。しかし、その野球大会での大活躍により、牟田さんは岩永先生のたいへんなお気に入りとなり、岩永研究室の第一の大学院生の地位を確立することになりました。大学院では、LPSやβ-グルカンと反応して、プロテアーゼ活性を生じるタンパク質の構造機能解析で理学博士の学位を取得しました。このプロジェクトは、現在でも私の研究室で継続して研究され、今年度の学位請求論文の主要な一部となっています。牟田さんの学位論文の仕事は、異物認識タンパク質の構造機能としては、国際的にもさきがけとなるものでした。

学位取得後は、九大生物学科の助手として、私とともに生化学実験を担当しました。数年後には、日本学術振興会の海外特別研究員として、オクラホマに1年、ニューヨークに1年の留学をされ、抗体受容体の情報伝達制御に関する世界的な仕事に関わり、Nature にファーストオーサーとして報告しました。岩永研究室では初めての快挙であり、私たちにとってもたいへんな誇りとなりました。帰国後は、九州大学・医学部・生化学教室の講師として移籍、その後助教授に昇任されました。そして、東北大学へ教授として着任され、今日のIκBζに関する研究での大活躍に繋がっています。

この約30年間、私の仕事やプライベートにおいても、周辺には必ず牟田さんの存在がありました。思い起こせば、学会途中で立ち寄った牟田さんの留学中のニューヨークのアパートは、ニンニク臭く、床には小さなゴキブリがごそごそと這い回っておりました。その中で熟睡できる牟田さんの精神力にはたいそう驚かされた記憶があります。牟田さんは、月に数回は、私に長電話をよこしてきました。ほとんどが研究や教育、研究室運営に関する、私も同じように抱えている問題を、1時間も2時間も受話器を握る手がしびれるほど話し合いました。私は、高校生のころから実家の父母に毎週日曜日に電話をするのが大きな楽しみでした。しかし、すでに父母は鬼籍に入っており、牟田さんも鬼籍に入り、とうとう私には長電話をする相手がいなくなってしまいました。

牟田さんの死因を考えるにつけ、彼の周囲には多くの医者や医学研究者の友人が控えておりましたので、もう少し早くこの病因をコントロールし、かつ完治させることができなかったのかと悔やまれます。牟田さんの病院嫌いや、体力の過信があったのかもしれませんが、それでも残念でしかたありません。牟田さんの心残りは、なんといっても、ご家族、奥様や息子娘さんのことでしょう。牟田さんは、世界のどこに出しても恥ずかしくない一流の研究者でした。そのような牟田さんの教育を受けた息子さんや娘さんですから、このことを心の底に秘めて、自信をもって将来を一歩一歩前進して下さるものと確信しています。牟田さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

2013年9月17日
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